はじまりの『正しき人』ノア(前篇)

☆目次

・13歳の夏
・13歳の秋
・14歳の春
・14歳の夏
・14歳の秋
・15歳の誕生日



・ノア13歳の夏


「お嬢様、きちんと食事をお召し上がりになりませんと。
 まだまだ育ちざかりなのですから」


メイド長のサヤが大げさに首をかしげる。
サヤは東洋人のメイドで、黒髪と黒いメイド服で全身が真っ黒なのが印象的だ。
20代前半と若いのになかなか優秀で、腕にはメイド長の証である腕章をつけている。

「・・・ごめんなさい、今日はいらないから下げて。
 私のお下がりで不愉快じゃなければ、メイドのみんなで食べてちょうだい」


サヤはやはり、「うーん」と大げさに腕組みをしてみせた。
私が許可したといえど、やはりメイド達で食べるというわけにはいかないようだ。
それも当然でとうさまにそのようなところを見つかっては、大目玉どころではすまないだろう。
良くて折檻、普通に考えればクビ、最悪の事態は想像するだに恐ろしい。

「そういうわけにも参りませんので・・・食事はもうしばらく置いておきますね」

サヤは大きく一礼して、静かにドアを閉めて戻っていった。


サヤがいなくなったのを確認すると、わたしは自分のパソコンをつけた。
アークコンツェルンの関連企業「アークソフト」が作った高性能パソコンは、
スムーズに機動して軽やかな起動音と共に会社のロゴを画面に映し出した。
やがてその画面はデスクトップに切り替わり、
わたしは画面に並ぶアイコンのうちひとつをクリックしてプログラムを起動させる。


「Genesis Online」


重厚なオーケストラサウンドが響き渡るのと同時に、
タイトル画面が表示されてゲームが起動する。
「ジェネシスオンライン」は東洋のゲーム会社が作り出した
ファンタジーMMORPG(大規模多人数型オンラインRPG)であり、
わたしは暇さえあればこの世界に入り浸るようになっていた。


・・・この世界は居心地が良かった。
わたしに腫れ物に触るような扱いをする人はおらず、
誰もが身一つでこの世界に入り、この世界での努力だけによって認められる。
何も自らで成し遂げることなく、大層な人物のように扱われる現実世界とは全く異なっていた。

わたしのキャラクターは普段着ている上品で淡い色合いのドレスとは異なり、
飾りがごてごてとたくさんついた、派手な服で着飾っていた。
とても戦闘に向いた服装には見えないが非常に性能の高いレアアイテムで、
ちょっとこのゲームに熱中している人であれば誰もが羨むような装備だった。


いつものように日課のモンスター退治をしようと、ダンジョンへ向かおうとしたその時。
がたんと大きな音を立てて部屋のドアが開かれた。

「・・・とうさま、部屋に入る時はノックぐらいしてくださいまし・・・」

わたしは無駄だと思いつつもか細く声をかけた。我ながら情けない声だったと思う。
部屋の入口にはスーツを着て黒光りする杖を持った、初老の男性・・・とうさまが立っていた。
とうさまはわたしが言ったことには興味がないと言った趣で、
つかつかと歩み寄り、杖で私の手を打ちつけた。
じいんと手がしびれ、光学式マウスを手放してしまう。

「今日も教師に難癖をつけて勉強をしようとしなかったようだな、ノアよ。
 挙句にこのような衆愚の低俗な遊びに現をぬかしおって!」


とうさま・・・アークコンツェルン会長「モーンド=アークティック」は
ジェネシスオンラインの画面を忌々しげに見つめて言った。

「とうさま、私は帝王学や経済学には興味がございません・・・
 アークコンツェルンの後継者は、とうさまの優秀な部下の方から選んでくださいまし・・・」


わたしは震えをなんとか抑えつつも反論した。
・・・それがますますとうさまを怒らせることもわかっていたのだが。

「馬鹿者が!アーク財閥は代々我がアークティック家が引き継ぎ、
 私の代になって、私とお前の母ウトゥでここまでに育て上げたのだ。
 そして私とウトゥの血を引くお前こそが、この地球の王となるべき定めなのだ!
 王が大衆と同じことをする必要はない、自覚を持つのだノアよ!」


・・・地球の王。
そんなものになったとして、わたしは幸せになれるのだろうか。
わたしが欲しかったのは、わたしととうさまとかあさまが3人で仲良く暮らせる世界。

地球の王なんかになったところで、かあさまは戻ってこない。
とうさまはかあさまが死んでから、人が変わったかのように厳しくなり、
言うことを聞かない私に手をあげることが多くなった。

そう、例えいくら財力があって人を自由に動かすことができたとしても。
わたしの望む世界を作ることなんて、できっこないのだ。

「・・・明日はきちんと勉強します。ごめんなさい」

色々な考えが頭を巡ったが、わたしはぶたれるのが怖くて、
震えを抑えながらそう伝えるのが精いっぱいだった。
とうさまはまだ怒りが収まらない様子だったが、
その返事を聞いて一応は納得したらしく、つかつかと足音を立てて部屋から出て行った。


「・・・うさぎさん、うさぎさん。もし、わたしが真面目に勉強をすれば・・・
 とうさまはまた、以前の優しいとうさまに戻ってくださるのかしら・・・?」

わたしは、まだ痺れる手で部屋の片隅に座るウサギのぬいぐるみを持ち上げた。
もちろん返事はないのだが、メイド達にも本心を打ち明けられないわたしにとっては、
かあさまが生前に作ってくれたこの「うさぎさん」だけが心の支えだった。




・ノア13歳の秋


「お嬢様、お言いつけ通りの本を買って参りましたよ。
 しかし、このような本をお読みになって何をなさるんでしょう?」


サヤはいつものように大きく首をかしげる仕草をしつつも、
買ってきた本を優雅に私の机の上に立てていった。

「誰でもわかるプログラミング」
「人工知能学会機関紙」
「計算知能におけるファジィ制御手法」


などと書かれた表紙を確認しつつ、わたしが頼んだものと同じであることを確認する。

「ありがとう。ちょっとした新しい趣味よ、気にしないで」

わたしがそう答えると、サヤは「ふーむ」と唸って腕を組みながらも大人しく出て行った。

*

それ以降わたしはゲームに使っていた時間の多くを、
本を読むこととプログラムを動かすことに割くようになった。
単純な受け答えをする程度の人工知能はすでにあちこちで実用化されており、
パソコンにダウンロードして解析を行えばその仕組みを知ることもできた。

「・・・つまり人間の脳も、これらの人工知能も、根本の部分では同一と取ることができる。
 条件がいくつも重なり合って『この場合はどうする』『前回こうだったからこうなるはず』
 といったことを判断するのね。人間の脳はそれがあまりに複雑で目に見えないけれど」

研究の甲斐あって、わたしは簡単なプログラム程度なら組めるようになっていった。
とうさまは滅多に家には戻らないし、家庭教師の授業も興味がなかっただけで、
その気になればわからないというわけではない。
自分の趣味にとれる時間は十分にあった。
家庭教師は私が素直に授業を受けたことにかなり驚いていたが、
ここでぐずってとうさまに報告されるのも非効率的だ。
さっさと授業を終わらせて本の続きを読み、パソコンで試してみたかったのだ。



・ノア14歳の春


「お嬢様、食事をお持ちいたしました・・・おや?
 今日はそのぬいぐるみも一緒にお食事ですか?」


サヤはいつものように大げさに首をかしげた。

「・・・ちょうどよかったわ。なんでもいいから、
 このうさぎさんに話しかけてみてちょうだい」


わたしは久々に少し笑ってサヤに話しかけた。
今までの研究成果を初めて人に見せると思うと、
少しは楽しい気分になろうというものだ。

「このぬいぐるみ・・・にですか?まあ構いませんが・・・
 あーあー、本日は晴天なーりー。本日は晴天なーりー」


いかにもやる気がなさそうにうさぎさんに話しかけるサヤ。
わたしはそれを見てにやりとする。

「あいにくですが本日はご覧のとおりのお天気です。
 洗濯物を干すのはおやめになったほうが良いでしょう」


「ひえええ!?ぬ、ぬいぐるみが!喋った!!」

サヤはオーバーリアクションで、全身で驚きを表現しつつ後ろにのけぞる。
思った通りの反応があったことにわたしは幾分満足した。

「このうさぎさんにちょっとした人工知能を搭載してみたのよ。
 まだ音声はちょっとぎこちないけど、受け答えは徐々に学習して色々できるようになるわ。
 天気の話ぐらいなら内蔵のカレンダーや計器類のデータを参照して答えられるわよ」


「こ、これはすごいものですねえ・・・話し相手なんかにも?」

「そうね、理屈の上では会話のバリエーションもだんだん増えていくはずよ。
 これだけ仕込むのにひと月以上かかっちゃったけど・・・」


サヤはひとしきり感心して、何度もうさぎさんに話しかけていた。
一部会話が噛みあわないこともあったが、
概ね話しかけたことに対してしっかりとした返事をするので、
サヤはますます面白がって何度も話しかけていた。


「あらもうこんな時間。そろそろお掃除に戻らないといけませんわ。
 今夜は旦那様が帰って来られるので特に綺麗にしておきませんと」


わたしは、それを聞くと今までの少し幸せだった気分も消し飛んでしまった。
わたしが家庭教師の課題をそつなくこなすようになり、
様々な知識をつけていくと、とうさまは以前のように私をぶつことはなくなった。

しかし、それと同時にとうさまがわたしを見る目が変わったように思えた。
・・・まるで、わたしではなく別の誰かの姿を見ているような。
わたしはそれに、理由はわからないけれど異様なまでの嫌悪を感じるようになっていった。



・ノア14歳の夏


「お嬢様、食事をお持ちいたしました。
 お言いつけ通りにニンジンも持ってまいりましたが・・・?」


いつも通り大きく首をかしげるサヤ。起きながら寝違えをしないか少し心配だ。

「ありがとう。今後の食事にはそれも添えてちょうだい」

わたしがそう答えると、サヤは「はぁ・・・」と納得しない様子で返事をしつつ部屋から出て行った。
サヤが納得しないのも無理はなく、わたしが頼んだのはニンジンのソテーやスープではなく
本当に軽く洗っただけの生のニンジンだったのだ。

サヤがいなくなったのを確認すると、わたしはそのニンジンを手に取り、
部屋の片隅に向けて語りかけた。

「うさぎさん、うさぎさん。お食事の時間ですわ」

わたしの声に反応して、うさぎさんはむくりと起き上がる。
そして機械制御とは思えないなめらかさでこちらに歩み寄り、わたしの傍で動きを止めた。

「今日もいい子にしていたわね、さあお食べ」

「はい、いただきます」

わたしがニンジンを手渡すと、うさぎさんはにっこり微笑んでお辞儀をした。
そして大きな口でニンジンを丸ごと1本口に含むと、
口の中の無数の歯でしゃりしゃりと小気味よい音をたててニンジンを砕いていった。

「ごちそうさまでした」

うさぎさんはニンジンを砕いて体の中に収納すると、
にっこり微笑んで食後のあいさつをした。
思い通りにうさぎさんが動いたことで、わたしも少し頬が緩む。


人工知能の精度を上げるためには感覚器官が必要だと考えたわたしは、
現在市販されている二足歩行ロボットを参考に、
うさぎさんの体のあちこちにセンサーを取り付け、生き物のような動きを可能にした。
そして、そのセンサーが感じたことも人工知能の判断基準に組み入れ、
「熱さ」「寒さ」「飢え」などの、人間が不快に感じることはうさぎさんも不快に感じるようにしたのだ。
これにより、いっそう実際の生き物に近い感情表現が可能になると考えたためだ。
副次的な効果ではあるが、センサーとAIの連動により動きも更にスムーズになっていった。

「じゃあ、お花に水をあげてちょうだい」

「はい、畏まりました」

わたしの頼みに応じてうさぎさんは右腕からジョウロを取り出し、
窓際に置いてある観葉植物に水をやりにいった。
ニンジンはうさぎさんの内部で水とそれ以外に高速で分離されているのだ。
水は植物を育てるのに使えばいいし、それ以外の成分を粉末状にしたものは
窓から庭に撒いてしまえば風に吹かれてなくなってしまう。
ここまでの機能を搭載するには様々な艱難辛苦があったのだが、今は割愛する。


「うさぎさん、うさぎさん。・・・わたしには、わたしの望む世界は作れるのかしら?」

わたしは観葉植物にシャワーを浴びせるうさぎさんの背中に話しかける。
うさぎさんは顔だけくるりとこちらに向けて喋った。

「きっとできます、ノア。私と一緒にがんばりましょう」

うさぎさんは、微笑んで私にそう言った。
わたしとの会話から、そう言えばわたしが喜ぶということを学習しているのだ。
しかし、もしかするとうさぎさんにもついに「心」が生まれたのではないか・・・
わたしがそんな淡い期待をしてしまうほど、それは自然な笑顔だった。



・ノア14歳の秋


「お嬢様、食事をお持ちいたしました。
 最近はお嬢様も食事をきちんと召し上がられるようになって
 このサヤも鼻高々でございます。これも私の日々の努力が・・・」


「ありがとう。キリのいいところまで作業が終わったら頂くわ」

サヤが自分の仕事について語りだすと結構長いのだ。
彼女の話を適当に切り上げるために口を挟み、台車に乗せられた料理に目をやる。
自画自賛するだけあってサヤの料理の腕は確かで、今日も豪勢でとてもおいしそうだ。

・・・しかしながら、私は「おや」と思い少し顔をしかめた。

「・・・今日はニンジンが乗っていないわね。手に入らなかったのかしら?」

そう。いつも夕食時にはうさぎさんに食べさせるための
ニンジンを添えてもらっていたのだが、今日はそれが見当たらなかったのだ。

「ええとですね、それがそのぉ・・・」

サヤはばつが悪そうに「うーん」といつものように首をかしげる。

「お嬢様ご所望のニンジンを乗せているところを旦那様がご覧になりまして。
 私のウトゥにこのようなものを食わすとは何事だ!とそれはもう恐ろしい剣幕で・・・
 ああ、ちょっと興奮して奥様とお名前を間違っていらっしゃったのですけれども、
 そんなことを指摘したらうっかり私のクビが飛びかねないほどのお怒りようでしたよ、ええ。
 私と致しましても、お嬢様がこのようなものを召し上がるのに疑問を感じていたところですし・・・」


・・・つまり、今後ニンジンは期待できないと。
サヤにはとうさまに見つからないよう念を押してはおいたのだが、
彼女はややそそっかしいところがあるので、こうなるのは時間の問題だったとも言える。

「・・・わかったわ。ほとぼりが冷めるまでニンジンはなしでいいわ。あなたに迷惑はかけられないし」

わたしがそう言うとサヤはほっと胸を撫で下ろすような動作をした。
とうさまが怒った時の恐ろしさはよく知っているし、正直もう持ってきたくないという気持ちは痛いほどわかる。
うさぎさんにニンジンを食べさせてやれないのは残念だが、
食べ物が必要なのはAIが「飢え」を不快に感じることでいっそうの感情表現をさせようとしたためであり、
実際に食べさせなくても何か悪影響が出るというわけではない。やむを得ないだろう。

*

「ノア、今日はご飯はないのですか?」

サヤがいなくなったのを確認すると、うさぎさんは私に歩み寄って声をかけてきた。
うさぎさんはもはや生体データで私とそれ以外を認識できるようになっているので、
この部屋に私以外の人間がいるときは動かないようにプログラミングしてあるのだ。
多くの機能を追加したため、うさぎさんの外見はもはや私と同じぐらいの大きさになっており、
かあさまからもらった本来の「うさぎさん」はAIを埋め込んで頭部に納めてある。
パソコンでいうところのハードディスク部分というわけだ。

「ええ、ごめんなさい。・・・しばらくニンジンは食べられないけど我慢してもらっていいかしら?」

うさぎさんは少し不服そうに首をかしげたが、そのあとこくりと頷いた。

「わかりました。ノアがそう言うのなら我慢します」

当然、わたしの言うことには従うに決まっている。わたしが作ったのだから。
自分のことを少し卑怯だとは思ったが、別に食べなくても機能には何の影響もないので問題はないはずだ。
わたしはうさぎさんのAIをより高度にしたいと思い、食事を終えると再度パソコンへと向かった。


やがて作業もひと段落ついたので、ほんの少し「ジェネシスオンライン」を起動させる。
ゲームの中では、一足早く町がクリスマスの飾りつけをされていた。

「そう・・・もうそんな時期なのね」

プレイ時間が以前ほどではなくなったとはいえ、ジェネシスオンラインが自分の原点になっているのは確かだ。
いつかは自分でジェネシスオンラインよりも、もっと精緻で美しい世界を。

「とうさま、わたしの誕生日のことなんて忘れてしまってるわよね・・・」

わたしの誕生日はもうすぐそこに迫っていたが、
去年は結局とうさまは仕事が忙しく帰ってこなかった。
サヤはパーティーを用意してくれ、それはそれでありがたかったのだが、
どうしてもわたしの心にはぽっかりと穴が空いたようで心から喜べなかったのだ。
とうさまがいたとして、今の自分が素直に喜べるとは思えなかったのも、
何かぽっかりと空いた心をますます広げているように感じた。

「ノア、私がついてます。辛いことがあってもがんばりましょう」

「うん・・・うさぎさん、わたしをまもって。ずっとずっとわたしをまもって」

うさぎさんは、私の心に開いた穴を少しずつだが埋めてくれる。
わたしはうさぎさんを抱き寄せ、頭をふわりと撫でた。
うさぎさんもわたしの体温を感じ取り、微笑んだのが見えた。





ーソレニシテモ・・・腹、減ッタナア・・・







・ノア15歳の誕生日


「お嬢様、誕生日おめでとうございます!
 今日は遅くはなりますが旦那様もお戻りなられるそうですよ!」


わたしの部屋を掃除にきたサヤはそう言うと、にこにこと上機嫌で掃除機をかけだした。

「とうさまが・・・本当に?」

思いもかけないことに、わたしは驚きと喜びと不安が入り混じった気分になった。
とうさまは最近は以前に輪をかけて忙しいようで家に帰ってくることも滅多になかったが、
たまに同席した時に感じる原因不明の不安は拭えなかった。

「ええ、私も気合いをいれてお掃除しませんとね!
 お嬢様も久々に誕生日に旦那様がいらっしゃって嬉しいでしょう?」


ふんふーんと鼻歌を歌うサヤに、わたしの不安など伝えられるわけもなく。
・・・大体からして、何が不安なのかもはっきりしないのだ。
それに、とうさまがいる誕生日をほんの少し期待している自分がいるのも確かなことで。

*

以前とうさまが誕生日を祝ってくれた時は今から3年前、わたしの12歳の誕生日だ。
そのときはかあさまがいて、かあさまがくれたのが手作りのうさぎのぬいぐるみ。
とうさまがくれたのが、アークソフト製作の最新型パソコン。
あの時は本当に幸せで幸せで、あの日が永遠に続けばいいのにと思っていた。

しかし3年という時間は短いようでさまざまなものを変えてしまう。
当時は最新型だったパソコンも、最近はわずかにプログラムの走る速度に不満を感じる。
うさぎのぬいぐるみは、自分である程度考え動くことまでできるようになった。
わたしは少し背が伸び、写真立ての中のかあさまに面影が似てきたように感じる。

・・・いや、感じるというレベルではない。
サヤも最近よくそのことについてコメントするようになっていた。

「お嬢様は、最近本当に奥様に似てお美しくなられましたね。
 10年前私がこのお屋敷に奉公に来たころの奥様にそっくりでございますよ」


大好きだったかあさまに自分が似ていると言われるのは悪い気はしなかった。
わたしにとってかあさまとは、世界で最も優しく美しい人だったからだ。

「ノア、あなたの名前には『正しき人』という意味があるわ。
 人々が迷ったときはあなたが『箱舟』を作り、人々を助けるのよ」


ふと、かあさまが言っていた言葉を思い出した。


*


「うーん、旦那様はまだお戻りになられないようですね・・・
 お嬢様、そろそろ時間も遅くなりますし先に頂いておきましょうか」


食堂の豪華な時計はもう夜の10時を指している。
サヤはかなり張り切って大広間の飾りつけや料理をしていたが、結局とうさまは帰ってこなかった。
作られた時にはそれはもうおいしそうだった料理もすっかり冷めてしまった。
サヤがわたしよりもしょんぼりとしているのが見て取れ、少し可哀想に思った。

「大丈夫よ、あなたの料理は冷めてもおいしいから。
 ・・・いただきましょう、サヤ。あなたにはいつも感謝してるわ」


「・・・もったいないお言葉です、お嬢様。
 そのお言葉だけで、私はこの十余年が報われた思いで・・・」


サヤは俯いて、ふるふると肩を震わせてしまった。
思えばサヤがこの屋敷に来たのも彼女が12歳のころで、
そんな年から彼女は必死で働いてきたのだ。
それを考えれば自分は周囲に甘えっぱなしだったことは疑いようもなく、
逆に彼女には頭の下がる思いではあった。

「大げさよサヤ。・・・さ、食べましょう。
 他のメイドや家庭教師たちも返しちゃったし2人で静かに祝えばいいわ。
 わたしたち、もう家族みたいなものでしょう」


住み込みで働いているメイドはこのサヤだけなので、
この時間になると屋敷に残っているのは私とサヤしかいない。
10人以上が軽々と座れる食卓はわたしたち2人には少々広すぎ、
さほど大きな音でもないはずのナイフとフォークの音と、
サヤの嗚咽が随分と大きく聞こえた。

去年より更に人が少なく、料理も冷めてしまった誕生日だが、
不思議と今年はそれほど心がぽっかりあく感覚はなかった。

*

わたしとサヤがそれぞれの部屋に帰るころにはもう夜の11時を過ぎていた。
サヤは朝から働き詰めでかなり疲れていたようなので、
洗い物などは明日にしてもう休むように指示をしておいた。
わたしもずっとプログラムをいじって疲れていたため、ぱたんとベッドに倒れこんだ。

その時、ふと目の端にとまったうさぎさんに気づいた。
うさぎさんは何か恨めしそうな視線をこちらに送っている・・・ように見えた。

「・・・そうね。とうさまが戻らないしサヤは寝ちゃったし今日はチャンスね。
 待ってて、今台所にいってニンジンがないか探しにいってみるわ」


私は手で反動をつけて起き上がり、うさぎさんに少し微笑んだ。

・・・その時。庭の片隅の駐車場に明かりがついているのが見えた。
とうさまだ。
期待からか不安からか、胸が高鳴る。
外は暗かったが車から出て来たシルエットだけでもとうさまなのを確信した。
とうさまは玄関の鍵を開け、中へと入って来る。


―かつんかつん。


ほどなくしてわたしの部屋のドアがノックされた。
このノックは間違いなくとうさまのノックだ。
とうさまは杖を使ってノックするため非常にわかりやすい。
わたしが返事をするより早く、がちゃりと部屋のドアが開いた。

「とうさま・・・お帰りなさいませ」

私はベッドから立ち上がり、両手を前にやりお辞儀をする。
とうさまは何か大きなケースを抱えていた。

「遅くなってすまなかったな。これを探していたら随分時間がかかってしまってな」

とうさまはケースを置くと屈みこみ、それを開いた。
そしてわたしはその中から出て来たものに目を奪われる。

「このドレスは・・・?」

ケースから出て来たのは一着のドレスだった。
高価なのだろうが、それを嫌味に感じさせないシンプルな美しさを感じるドレス。
それだけではなく何か懐かしさを感じさせる。

「これはプレゼントだ。今着ている服の上からでもいい、着てみなさい」

わたしは吸い寄せられるようにそのドレスを手に取り、
寝巻の上からではあるがそれを身に着けた。

「素敵・・・」

ドレスを着ると懐かしさの意味がわかった。
これは、写真立ての中のかあさまが着ていたドレス。
わたしと、とうさまと、かあさまの3人が手をつなぐ写真の中の。
漂ってくる香りは、かあさまの香りだ。
私は思わずくるっと回り、ドレスもそれに合わせてふわりと回った。
わたしはいつの間にか、涙を流していた。
とうさまは、やっぱり私のことを忘れていなかった。
そしてかあさまと、こうして引き合わせてくれた。


「ああ・・・素敵だ。やはり君は美しいよ、ウトゥ」

とうさまがうっとりしたような声を出した。わたしは全く聞いたことないような声だった。

「もう、とうさまったらまた名前を間違っているわ。私はノアよ」

私は少し照れてとうさまのほうを振り向いた。
そして・・・


―ゾッとした。

とうさまの目は、どこか違うところを見ている。
とうさまが見ているのは・・・わたしじゃない・・・

「何を言っているんだい、ウトゥ。私と君は王室のダンスパーティーで出会った。
 私は君の美しさと知性に強く惹かれて深く愛するようになった・・・」

とうさまはずいっと大きな一歩を踏み出し、わたしの手と背中を引き寄せる。

「とうさま・・・わたしはノアよ・・・かあさまじゃないわ・・・」

震えた声を出しながらとうさまの目を見つめる。
・・・だが、とうさまの目はもはや正気のそれではなかった。
おそらくは、かあさまが死んだ日から緩やかに狂気に侵されていったのだろう。

「ウトゥ・・・私は君が死んだなんてずっと信じられなかった。
 だが今私は確信したよ。君はこうして私に会いに来てくれた。
 さあ、もう一度私と夢の続きを見よう。私と君とでこの地球の王となろう」


「・・・わたしはノアよ!かあさまじゃないわ!!」

わたしは、思わず両手でとうさまを突き飛ばした。
かなりの勢いだったため、とうさまは後ろによろめきべたんと尻餅をついた。

「ウトゥ・・・君は少し混乱しているようだね」

とうさまはそれに怒るわけでもなく、にやりと笑って立ち上がった。
そして、急に杖を振り上げわたしの脛を凄まじい勢いで打ち据えた!

「ひぐうっ!?い、痛い・・・やめて・・・とうさま・・・
 ひいっ!?痛い!痛い!やめて!やめてえっ!!・・・誰か、助けて・・・」


わたしは懇願するが、とうさまは何度も何度もわたしの足を打つ。
わたしはうつ伏せに倒れこみ、あまりの痛みに頭がどんどん真っ白になっていく。

「ぜぇ・・・ぜぇ・・・君は私の妻ウトゥだ!君は美しく!賢く!優しく!気高いのだ!
 ・・・そうだ・・・今、君が私のものであったことを思い出させてあげよう・・・」


とうさまは身動きのとれなくなったわたしをベッドの上に放り投げ、上着を脱ぎ捨てた。


―わたしの、ねがいごと。


―わたしと、とうさまと、かあさまと。


―3人で、ずっと仲良く、幸せに。


ああ、もう、それはこの世界では叶わなくなってしまったのだ。
わたしは、そんなに大それたことを望んでしまったのだろうか。
ならこんな世界、こんな世界、いっそ・・・


*


「・・・さま、お嬢様!!お目覚めになってくださいっ!!!」

誰かが私の体を揺らす。目を閉じているのに視界が赤いように感じる。
体が熱い。ヒリヒリする。

促されるまま私が目を開くと、周囲は一面赤の世界。
その理由はすぐ明らかになった。屋敷が燃えていたのだ。

「お嬢様、ご無事で何よりです!何やら様子がおかしかったので飛び起きたところ、
 2階のほうから火の手が・・・着の身着のままで飛び出したところ、
 庭でお倒れになったお嬢様を発見したのでございます!
 あのぬいぐるみと2階から飛び降りたご様子で、なんと無茶をなさるのかと・・・」


サヤの視線の先には、庭で倒れているうさぎさんがいた。
わたしがうさぎさんを抱いて2階の窓から飛び降りたのだろうか?
・・・頭痛がして、よく思い出せない。
とうさまに足を打たれ、誰かに助けを求めたところまでは記憶があるのだが・・・

私が足の痛みをこらえてふらふらと立ち上がると、サヤは少し微笑んで・・・
何かを決心したかのようにネグリジェ姿のまま屋敷のほうに向きなおった。

「・・・お嬢様、私は旦那様を探しに屋敷に戻ります。
 これまで十余年間お仕えしましたが、勝手をお許しくださいませ」


無茶だ。
火の勢いは収まるどころかますます強くなっている。
あんな中でとうさまを探すなんてできっこない。
それに・・・おぼろげだが、とうさまはあの中にはもういない気がする。

「・・・お嬢様、私は罪深き女です。お嬢様と旦那様の仲を取り持つことが
 最後までできませんでした。それどころか、卑しくも旦那様に愛されたいと願ってしまいました。
 ・・・旦那様の御心の中には常に奥様がいらっしゃったため叶いませんでしたが、
 私をここまで生かしてくださったアークティック家に最後のご奉公がしたいのです」


サヤが、とうさまを。全く知らなかった。
わたしは、この狭い世界のことすら全く知らなかったのだ。

「・・・それでは御機嫌よう、お嬢様。あなたには素晴らしい才能がおありです。
 その才能を世界のため、人々のため、どうかお役立てくださいませ!」


そう言い残し、サヤは炎の中に向かって走り出した。
「待って」と言おうとしたが、喉が掠れて声にならない。
それに、わたしが懇願したところでもう彼女の心には届かないだろう。


わたしは力なく膝をつき、茫然と炎を見つめていた。
ほどなくして、屋敷の近くで倒れていた人影がすっくと起き上がった。
・・・いや、正確には人ではない。うさぎさんだ。
どこかしら満足げな表情でわたしの傍に歩み寄ってきた。

うさぎさんは、わたし以外の人間が近くにいると動かないようにプログラミングしてある。
つまり、つまりもうサヤはもちろん、とうさまも・・・

「ノア、私がついてます。辛いことがあってもがんばりましょう」

雪が降りしきる、聖なる夜。
屋敷は全ての記憶やわたしたちの痕跡を消し去るかのように轟々と燃え続けていた。
わたしとうさぎさんだけを、この世界に残して・・・


written by marsh

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