アネモ婆さんの名も無きスープ


そこは管理カードのマップにさえ情報が表示されない地域で、
特に目立ったアイテムもエネミーも出現しない。
些細なクエストさえも存在しない。
何のうまみもメリットもないいわゆる「過疎地」だった。

だから特に何かある事を期待してはいなかった。
ただ、何となく、その先に村がある事を示す古ぼけた看板があったから立ち寄ってみただけだ。
せめてご馳走とまでは言わずともカバンに入っている携帯食料よりは
多少ましな食事にありつけられればと淡い期待を抱いてはいたけれど。
そんなささやかな希望も村に足を踏み入れた瞬間にあっさりと霧散してしまった。

ひどく寂れた村だった。
過去に捨てられたのだろうか、朽ち果て、くずおれた家屋がいくつも見える。
それらには草蔓がびっしりと絡みつき、
かつてそこに人の営みがあった痕跡さえも隠そうとしている。
そんな廃墟の隙間を縫うようにぽつりぽつりと、
生活感がまだ残されている小さな家屋が存在し、かろうじて村という体を成していた。
人通りは皆無でマーチャントはおろかエクスプローラーの姿も見当たらない。

「何となくそんな気はしていたけど、こりゃ想像以上に過疎ってるな…」

僕は一人ごちながら指で頬を軽く掻く。

ふと、村の奥から白い煙が漂ってきた。
僕は煙の漂ってくる方に向きなおりその煙の匂いを嗅いでみる。
香料と野菜の混じり合う芳ばしい匂い。
誰かが何か料理を作っているのだろうか。

時刻は正午といったところ。
真南にのぼりきった太陽を見上げると同時に僕の腹から大きな音が鳴り響く。
なんとも気の抜ける音を聞いた途端にどっと疲れがでてくる。

プレイヤ−キャラクター、仮初のアバターであっても
このフィルトウィズでは食事や空腹といった概念がある。
腹を満たさなければ徐々に疲労していくし、最悪、動けなくなってしまう事だってあるのだ。

もっとも、この世界で腹いっぱい食事をしたところで
現実世界の空腹や疲労が回復するわけではない事には注意しないといけないのだけど。
…今の僕にとってそれは些細な問題に過ぎない。
少なくとも「あちら側の腹」を満たす必要はまだ、ない。

とはいえお腹が空いてきたという感覚がするのは事実だ。
僕は自然とその芳ばしい香気を辿るように村の奥へと歩いていく。

小さな掘立小屋のような平屋がひっそりと村の最奥に佇んでいた。
その平屋を取り囲むように野菜畑が拡がっている。
あまり食べ物についての知識は詳しくはないが、
素人目にみてもシュセン、ナレッジ、シーリンクといった
ガンエデン大陸東側特産の野菜が多彩に、そして豊かに実っているのがわかる。
個人で持つ畑としてはそこそこ大きく手入れもしっかり届いているような印象を受けた。

「へえ、こんな寂れた村だってのに随分と立派じゃないか」
思わず僕は感嘆の息を漏らす。

ふと、目の前の小屋のドアがキイと音を立てながらゆっくりと開き、
そこから腰の曲がった背の低い老婆がゴホゴホと軽い咳をしながら出てきた。

老婆は僕と目があうとしわがれた口を開く。

「おやまあ…おサスライさん、旅のお人かい?」

その声はどこか懐かしく優しい声だった。
一体何故懐かしく感じるのだろうか、それはわからないけれど。

「ああ、一応ね。なあ婆さん、この村には宿屋ってあるかい?」

そう尋ねると老婆は目を一瞬きょとんとしてその後カラカラと笑い声をあげた。

「ひぇひぇひぇ!、そんなもんこの村にゃありゃせんよ。
 いるのは誰も住んでない家とババぐらいのもんさ。
 久々に旅人がきたと思ったらまたお決まりの質問をこのババにしてきたもんだね、
 まるで昔のワンダラーみたいだ、ひぇひぇひぇ!ふふっ…うっ!」

次の瞬間ゴホゴホと激しく老婆は咳き込んだ。
急に笑い声をあげたせいでむせてしまったのだろうか。

僕は慌てて駆け寄り背中をさする。
薄手の麻布でできた服ごしから痩せ細った体と細い背骨の感触が伝わってくる。
…かなり年老いた体だ。

フィルトウィズで高齢のNPCという存在は実は珍しかったりする。
大抵そういう高齢のNPCには何らかのイベントやクエストが設定されているのだが、
僕の手元の管理カードからはクエストジャーナル更新の通知は無い。
いよいよこの村には何もないという事を確信させられる。

「急にそんなに笑うからだぜ。ほら、ゆっくり息を整えて」

「げほっ!ゴホッ!すまないねえ、おサスライさん、
 ふふっ…旅人にこんな親切にされたなんてあたしゃ久しぶりだよ」

僕は老婆がこれ以上咳き込む様子が無いのを確認すると背中をさすり続けていた手を放した。

「元気なのはいいけどあんまり無理はするなよ、婆さん。
 …それじゃ俺は陽が沈む前に次の村に向かうとするよ」

「待ちなさいな、おサスライさん」

踵を返そうとすると老婆が呼び止めてきた。

「おサスライさん、あんたお昼はもう食べたのかい?」

僕は瞬きをしきょとんとした表情で気のない返事をする。

「あ、いや、まだだけども…」

老婆はその返事を聞いてひぇひぇひぇと笑う。

「だったら今お昼の用意ができたところだよ。
 ババの作った大したものでなくていいのなら食べていっておくれ」

そういって老婆は平屋のドアを開いて手招きをした。
ドアの奥からは村の入り口付近で嗅いだ香料と野菜の芳ばしい匂いがよりいっそう強く漂ってきた。
空腹だったのはもちろんだが何よりも「いかにも旨そう」な匂いに
思わず唾液がこみ上げ、ごくりと唾を飲み込んでしまった。

老婆はそんな僕の姿をしわの奥に隠れた目でとらえ、その目を優しく細めた。

「今から村を出たって陽が沈みきって次の村にゃ間に合いやしないよ。
 そうさね、宿がないなら使ってない部屋が1つあるからそこを使いなさいな。
 何、こんなババを労わってくれたささやかな礼の一つさ。さあ」

そういって老婆は再び手招きをする。

「あたしゃアネモっていうババさ。
 おサスライさん、お名前は?」

僕はまるで流れるように、そう、まるでかつて今までもそうしてきたかのように、
手慣れた招きいれ方をする老婆を少し茫然として見つめ、ふと我に返って口を開いた。

「カムイ…俺はカムイ=カムライ…旅のエクスプローラーさ。
 しかし、いいのかい?こんな親切にしてもらって…」

「ああ、部屋の事は構いやしないさ。
 元々もう使っていなかったんだからね。
 埃を被っちゃいるけど、寝泊りできないこともないよ。
 そうさね、しいてお代を頂くとするならこんな独り暮らしのババの寂しい昼に付き合っておくれ。
 それで結構…充分さね。
 さあカムライさん、中に入って適当にかけて待ってておくれ。すぐに支度してあげるからね」

そういって老婆…アネモ婆さんはひぇひぇひぇと笑い、そして再びゴホゴホと軽く咳込む。
そして咳がおさまるとそのまま平屋の中へと入っていった。
僕はアネモ婆さんの背中を追うようにその平屋の中へと入った。

平屋は低い天井ながらも外から見たよりもずっと広い。
5〜6人程度の人数ならくつろげるスペースは十分にあるようにも見える。

ドアをくぐってすぐ右側にはラウンドテーブルが2つ並べられている。
テーブルの上には木製のチェアが積み上げられており、それらには埃が覆いかぶさっていた。
長い間使われていないようだ。

左側にはゆったりとした肘掛けのついたチェア、そして小さな四角テーブルが置かれていた。
その傍には暖炉があり、パチパチと勢いよく火が燃え、部屋の中を明るく照らしている。
そして暖炉の上には古ぼけたフライパンが飾られていた。
随分使い込まれたのだろうかあちこちに傷やへこみが見うけられる。
インテリアとするには少し奇妙だがそれ故にかひときわ目立って見えた。

僕がそのフライパンを興味ありげに見つめているとカチャカチャと音を鳴らしながら
アネモ婆さんがトレイを両手に持って厨房から出てきた。

曲がった腰を精一杯のばしながら、それでもおぼつかない足取りでトレイの上に乗っている皿を運んでくる。
両手に持つトレイはカタカタと震えておりとてもじゃないが危なっかしくて見てられない。
僕は表情をひきつらせ見守っていると、案の定アネモ婆さんは足元をふらつかせる。
僕は慌てて駆け寄りアネモ婆さんとトレイを支える。

「おいおい、婆さん!無理するなって言ったばかりなのに勘弁してくれよ」

アネモ婆さんは僕に支えられながらひぇひぇひぇと笑う。

「ひぇっひぇ!久々の客人だもの、多少は無理だってするさね」

その笑い声と表情からはまったく反省した様子も見られない。
僕はお昼ご飯をごちそうされにきたのであって年寄りの世話をしにきたわけじゃないというのに!
顔を少し引きつらせアネモ婆さんからトレイを取り上げてトン、と四角テーブルにトレイを置く。

「ふふふ、昔は息子がこういう事をしてくれたんだけどねぇ」

アネモ婆さんはそう言いながらおぼつかない足取りで肘掛けのついたチェアに深く腰を下ろし、大きなため息をつく。

「この村はね、昔はそりゃたくさんのワンダラーが集っていたのさ。
 ずっと、ずっと昔にね。ここはそんなワンダラーに食事を振る舞う食堂だったのさね。
 あたしと息子、二人で経営する小さな小さな食堂さ。今は見ての通りもう店を畳んじまったけどね。
 …カムイさん、あんたそこのフライパンをずっと見ていただろう?
 あれはね、息子がずーっと使い続けてきたお気に入りの代物だったのさ。
 傷がついても錆がついても、ずっとずっと使い続けて、ワンダラーに料理を出していたんだ。

「ワンダラー達にか、そりゃ忙しかったんだろうな。そういえば息子さんは…」

僕はそう言いかけてはっとなって口を閉ざした。
しまった、と思うには遅すぎるかもしれない。
僕はそのまま俯いてしまう。

アネモ婆さんはゴホゴホと再び軽く咳をして再びひぇひぇと軽く笑い声をあげた。

「…息子はね、大侵攻の時、自ら兵士に志願したのさ。
 ババを守ろうとしたんだろうね。
 あたしゃ必死に止めたけどそれも聞かずに武器を手に持って、
 村を飛び出していったよ。…それから、もう帰ってきやしなかった」

馬鹿な息子だよ、とそう呟いて老婆は遠くを見つめ、軽く唇を震わせた。

「…すいません」

僕は申し訳ない気持ちになり一言謝ると、アネモ婆さんは再び笑い声をあげた。

「さあ、辛気くさい話はおしまい。
 ババの野菜スープだよ、冷めないうちにおあがり」

そういってアネモ婆さんは皿に盛られたスープを指さす。

香料と新鮮な野菜がたっぷり使われた野菜スープ。
しかし特にこれといって何か特徴があるわけでもない。
何の変哲もないただのスープだ。

僕はそのスープを軽くスプーンで掬い、一口味わってみる。

次の瞬間僕の目が大きく見開いた。
マジカルクッキングや町の高級料理店に比べればはるかに素朴な味だ。
本当に何でもない、タダの野菜スープでしかない。

それなのに。
それなのにどうしてこんなに美味しくて、
そして初めての味なのにどうしてこんなに懐かしいのだろう。

僕は夢中になってそのスープに飛びついた。
皿に野菜の欠片も、スープの一滴も残したくない。

文字通り一皿丸ごとあっという間に平らげ、アネモ婆さんの方に向き直ってお礼を言う。

「何だろう、本当に美味いっていうのかな、いやそんな安っぽい一言じゃ足りないな、
 とにかく、こんな不思議なスープはじめて飲んだよ!」

お世辞でも何でもない。
本当にうまかったのだ。
今までに食べたこともない味、「あちら側」で食べたことのない味だ。
それはこの時の僕には知る由もなかったけれど「おふくろの味」というものだったのだ。

「こんな美味いものまだまだ作れるのに、この村に残り続けているなんてもったいないくらいだよ。
 いや、美味しかったよ!婆さん、本当にありがとう、ご馳走様ってやつだぜ!」

アネモ婆さんは目を見開き驚いた表情をする。
そして体中をわなわなと震わせ、両手で顔を覆った。

僕はそんな姿に驚いてアネモ婆さんの傍に寄る。
一体急にどうしたというのだろう。

「ああ、やっと、やっとわかったよ」

アネモ婆さんはそう呟いて嗚咽を漏らす。

「カムライさん、なんでもないんだよ、ただね…あたしゃようやくわかったんだ」

「わかったって、何がだい?」

僕はそう尋ねると、アネモ婆さんは両目から流れたしずくを拭いながらにっこりと優しく笑みを浮かべた。

「ババのこの世界での役割と、今まで『生きてきた理由』さ。ようやく、やっとわかったのさ」

僕は困惑の表情を隠せずにいた。
それでもアネモ婆さんは喜び、興奮した様子で語り続ける。

「ババはね…こんなただの野菜スープを作るぐらいが取り柄のなんでもないババだったのさ。
 それでも毎日やってくるワンダラーたちのために毎日厨房に立ったもんさ、息子と一緒にね。
 それなのに、あの日…「消失の日」にワンダラーたちはみ〜んな消えちまって。
 この村には誰もこなくなっちまった。
 そしたら今度は息子が大侵攻で命を無くした。
 あたしの…ババの生きがいは何もかもみ〜んな次々と消えてなくなっちまったのさ…
 それなのにババだけがたった一人世界で生き残ってる。
 それに一体何の意味があるのかって今までずっとずっと悩んできたのさ、わかるかい」

「・・・」

「カムライさん、あんたがたった今ババに生きる意味を教えてくれたんだよ。
 ババはね…もう一度ババの作ったスープを飲んで心から
『美味しい』と言ってくれる人をずっと、ずっと待ち続けていたんだよ。
 こんな何もかもボロボロになってもずっとね。
 あの時のワンダラーたちがババや息子にそう言ってきてくれたように。
 それがババがこの世界で今も生き続ける理由だったのさ、それがようやくわかったのさ」

ありがとう、ありがとうと何度も繰り返しながらアネモ婆さんは再び両手を顔で覆った。
そして、再び大きくせき込んだ。
僕はその背中を無言でさする。
咳がおさまったころ僕はアネモ婆さんに言った。

「アネモ婆さん、もしよかったら昔のワンダラーの話を聞かせてくれないかな。
 息子さんと作ってきた料理の事も。それと…」

僕は少し照れくさくなりながらもさらに一言アネモ婆さんに頼みごとをした。

「スープ、お代わりあるかな?」

アネモ婆さんは一瞬きょとんとした表情をする。
そして涙でくしゃくしゃになった顔にいっぱいの笑みを浮かべながら言った。

「鍋ごとここに持ってきて食べるといいさ、こんなババの昔話くらいいくらでもしてやるよ!

そして僕はアネモ婆さんの作った野菜スープを腹が十二分に膨れるほど平らげながら、
かつてワンダラーがこの村の周辺に現れていたという
魔獣討伐の武勇伝や逸話、奇妙な土産話に夜遅くまで耳を傾けた。


 
部屋の作りや調度品からして恐らく息子がかつて使っていた部屋だったのだろう。
確かに埃は積もっていたものの野宿に比べればはるかにましだった。
時刻は午前9時、真夜中までアネモ婆さんの話を聞いていたとはいえそれでも少し起きるには遅くなってしまった。

僕はチェアーに深く座り込んでいるアネモ婆さんを見かけ声をかけた。

「おはよう婆さん。何から何までいろいろ世話になったよ」

「・・・」

返事はなかった。

「アネモ婆さん?」

僕はゆっくりとアネモ婆さんの傍に近寄る。

『ババはね…もう一度ババの作ったスープを飲んで心から
「美味しい」と言ってくれる人をずっと、ずっと待ち続けていたんだよ。
 こんな何もかもボロボロになってもずっとね。
 あの時のワンダラーたちがババや息子にそう言ってきてくれたように。
 それがババがこの世界で今も生き続ける理由だったのさ』

その表情は穏やかだった。
まるで自身の役目を完全に終えた事を確信したかのように。
とても、満たされた表情をしていた。

アネモ婆さんは目を閉じたまま、もうその目を開くことはなかった。


フィルトウィズはあれから何度か同じ季節を繰り返した。
かつて街道にあった村への案内板は既に腐り、朽ち果て地面に転がっていた。
文字は読めないほどにかすれてしまっている。

僕はかつてそこにあったはずの村の入り口に一人佇む。
村の入り口は丈の高い草に覆われておりそこに人の出入りが完全に無くなった事を示していた。
草の陰からは村の奥にあったアネモ婆さんの平屋があった場所が見える。
それらは全て崩れ落ち、畑も全て枯れ果ててしまっているようだった。

あの時の村も、アネモ婆さんも、そしてあの野菜スープもこのフィルトウィズ世界から失われてしまった。
恐らくあのスープを口にする機会は二度と得られないだろう。

それでも、僕はあの野菜スープの味が忘れられずにいた。
アネモ婆さんが「生きた証」はずっと僕の舌に残り続けている。


END


written by satsukix

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